2010年03月13日
第75話 5.コンタクト(遭遇)<親友って何だ>
<親友って何だ>
父と最初で最後の一晩、二人きりで人生談義をした時、父のことばの中に
「人間にとって最大の財産は親友だよ。」というのがあった。
じゃあ、親友って何だ?と問われたら我々は何と答えるだろう?
面白い事にボクと自分を呼んでいた時代、具体的には懐かしの市立中一年生の頃、
福本という友達がいて、僕が「親友になろう」と言うと彼は即座に「イヤだ」と言う。
それがキッカケで毎日二人は派手な喧嘩をした。あんまり激しいので担任の先生から地下の工作教室に呼ばれ、
「お前たちはそんなにケンカをしたいのか?さぁ今日は先生が一緒にいてやるから、思いっ切りやってみろ。」
と言われた。そして犬の子じゃれあうように叩き合いが始まり、間もなく体力の限界が来てラストは気力の叩きあいになり、止めた。
それ以来、二人は喧嘩をしなくなった。
意味も知らない“親友”になれたかどうかは覚えていない。
50年も経った今、久しぶりで同窓会などで会うと互いにニマーと笑い合う。
トコトン何でもぶつけ合い話し合って、何でもどんな事でも話し合える仲、これを親友と呼んでもいいのではないか。
そして今、我々の中で親子・夫婦・恋人・仕事のパートナー等々“親友関係”はあるのだろうか?
親友、それは親密な会話関係であるなら、それを阻害しているものは人間がへばりつく
「物あり我ゼッタイ」の我欲の会話ではないか。
父と最初で最後の一晩、二人きりで人生談義をした時、父のことばの中に
「人間にとって最大の財産は親友だよ。」というのがあった。
じゃあ、親友って何だ?と問われたら我々は何と答えるだろう?
面白い事にボクと自分を呼んでいた時代、具体的には懐かしの市立中一年生の頃、
福本という友達がいて、僕が「親友になろう」と言うと彼は即座に「イヤだ」と言う。
それがキッカケで毎日二人は派手な喧嘩をした。あんまり激しいので担任の先生から地下の工作教室に呼ばれ、
「お前たちはそんなにケンカをしたいのか?さぁ今日は先生が一緒にいてやるから、思いっ切りやってみろ。」
と言われた。そして犬の子じゃれあうように叩き合いが始まり、間もなく体力の限界が来てラストは気力の叩きあいになり、止めた。
それ以来、二人は喧嘩をしなくなった。
意味も知らない“親友”になれたかどうかは覚えていない。
50年も経った今、久しぶりで同窓会などで会うと互いにニマーと笑い合う。
トコトン何でもぶつけ合い話し合って、何でもどんな事でも話し合える仲、これを親友と呼んでもいいのではないか。
そして今、我々の中で親子・夫婦・恋人・仕事のパートナー等々“親友関係”はあるのだろうか?
親友、それは親密な会話関係であるなら、それを阻害しているものは人間がへばりつく
「物あり我ゼッタイ」の我欲の会話ではないか。
2010年03月06日
第74話 5.コンタクト(遭遇)<あなたは私>
<人を生かすを人生という>
この「あなたは私」というメッセージも、
「人を生かす」と同じようにことば自体のヒラメキから出たものだ。
カリフォルニアのエサレン研究所から帰って来て、発送したエクササイズの一つに
互いが向かい合って真っ白になる迄「あなたは私です」を言い抜き、
全く同一感を得た時、抱擁し合うというのがあった。
このエクササイズが「ヒューマナイズ」という名称で人間研究サークルをしていた頃の人気番だった。
参加者も増えホテルの会場を借りた時、案内で上半身裸になった若者が
汗みどろで廊下に這い出し花嫁の行列とかち合って一発で出入り禁止になった事もある。
「あなたは私」というメッセージは、同じ種としての人間には本質的に何の差別も存在しないと言う事なのである。
もしあなたが私の家に生まれ育っていたら、私の家の会話体が乗り移って全く私になっていただろうし、
その逆も又真なりと言う事なのだ。
ここから「我々」ということばの深さが見えて来る。
エサレンでも「仮面の踊り」というエクササイズがあって、参加者が全員同じ表情の仮面を付け、
音楽の中で踊りあい、ふれあうと言うのがあった。
同じ顔、一切差別のない環境の中では不思議な、いとしさといたわりが湧いて来る。
自分が太っているからというコンプレックスで皆と風呂に入らない女の子と、
この仮面の踊りの中で出会った時、同じ顔同志の眼の中に涙が見え思わず抱きしめた事がある。
人は本質的に皆同じで、仲間なのに自分はダメだと思い込んで自分をいじめ抜く。
太りたくて太ったんじゃない。そう生きざるを得なかった環境にうまれていただけなんだ!
という事実が見えて来たら、生きる事がとても楽になる。
たまたま台湾でプログラムをリードした時、中国語で「ニーチョースーオー」(あなたは私です)と言い合った事が動機で
彼等の社会の一部でこれを挨拶代わりにして人間関係をつくっていると言う事を聞いた。
日本でも「今日は!お元気?」と一緒に「あなたは私です」を使ったら
キット人間関係に、違いをつくるのではないか。
この「あなたは私」というメッセージも、
「人を生かす」と同じようにことば自体のヒラメキから出たものだ。
カリフォルニアのエサレン研究所から帰って来て、発送したエクササイズの一つに
互いが向かい合って真っ白になる迄「あなたは私です」を言い抜き、
全く同一感を得た時、抱擁し合うというのがあった。
このエクササイズが「ヒューマナイズ」という名称で人間研究サークルをしていた頃の人気番だった。
参加者も増えホテルの会場を借りた時、案内で上半身裸になった若者が
汗みどろで廊下に這い出し花嫁の行列とかち合って一発で出入り禁止になった事もある。
「あなたは私」というメッセージは、同じ種としての人間には本質的に何の差別も存在しないと言う事なのである。
もしあなたが私の家に生まれ育っていたら、私の家の会話体が乗り移って全く私になっていただろうし、
その逆も又真なりと言う事なのだ。
ここから「我々」ということばの深さが見えて来る。
エサレンでも「仮面の踊り」というエクササイズがあって、参加者が全員同じ表情の仮面を付け、
音楽の中で踊りあい、ふれあうと言うのがあった。
同じ顔、一切差別のない環境の中では不思議な、いとしさといたわりが湧いて来る。
自分が太っているからというコンプレックスで皆と風呂に入らない女の子と、
この仮面の踊りの中で出会った時、同じ顔同志の眼の中に涙が見え思わず抱きしめた事がある。
人は本質的に皆同じで、仲間なのに自分はダメだと思い込んで自分をいじめ抜く。
太りたくて太ったんじゃない。そう生きざるを得なかった環境にうまれていただけなんだ!
という事実が見えて来たら、生きる事がとても楽になる。
たまたま台湾でプログラムをリードした時、中国語で「ニーチョースーオー」(あなたは私です)と言い合った事が動機で
彼等の社会の一部でこれを挨拶代わりにして人間関係をつくっていると言う事を聞いた。
日本でも「今日は!お元気?」と一緒に「あなたは私です」を使ったら
キット人間関係に、違いをつくるのではないか。
2010年02月27日
第73話 5.コンタクト(遭遇)<人を生かすを人生という>
<人を生かすを人生という>
経営コンサルタント時代、「色紙」を頼まれ、人生と言う題を出された。
人生か・・・・そうつぶやいて文字を見つめながらヒラメキで
「人を生かすを人生という。」
と書いたら大ウケで、以来書いた当人も真意がつかめていないのに、
このメッセージを乱発し続けた。
この真意は今、よく見えている。
「人を生かす」とは「人を愛す」事なのだ。
「人を愛す」のは如何に徹底して人を承認し続けるしかない。
人が如何に自分を認めて欲しがっているかは、想像を越えて貪欲である。
それ程、人は自分を認めない。生涯、承認の乳を求める赤ん坊である。
思えば、私の人生とはこの愛の真意を求めての旅であった。
チャップリンは生涯に4人妻を変えたというが、
結婚という形式こそなかったが私には十人以上の妻がいた。
いわゆる「彼女」と呼ぶ対象まで拡げたら星空のような思い出となる。
このゴージャスな旅が私に教えてくれたのは
「人を愛し抜き、愛し切ってこそ自分を愛し切れる。」
という結論であった。
そしてそれは全て自分の声、ことばで語りかける事によってのみ叶えられる。
経営コンサルタント時代、「色紙」を頼まれ、人生と言う題を出された。
人生か・・・・そうつぶやいて文字を見つめながらヒラメキで
「人を生かすを人生という。」
と書いたら大ウケで、以来書いた当人も真意がつかめていないのに、
このメッセージを乱発し続けた。
この真意は今、よく見えている。
「人を生かす」とは「人を愛す」事なのだ。
「人を愛す」のは如何に徹底して人を承認し続けるしかない。
人が如何に自分を認めて欲しがっているかは、想像を越えて貪欲である。
それ程、人は自分を認めない。生涯、承認の乳を求める赤ん坊である。
思えば、私の人生とはこの愛の真意を求めての旅であった。
チャップリンは生涯に4人妻を変えたというが、
結婚という形式こそなかったが私には十人以上の妻がいた。
いわゆる「彼女」と呼ぶ対象まで拡げたら星空のような思い出となる。
このゴージャスな旅が私に教えてくれたのは
「人を愛し抜き、愛し切ってこそ自分を愛し切れる。」
という結論であった。
そしてそれは全て自分の声、ことばで語りかける事によってのみ叶えられる。
2010年02月20日
第72話 5.コンタクト(遭遇)<金とは何か>
<金とは何か>
それにつけても人間がいかに金に捕らわれ、金に使われているかの事実を
人間自身が漠然としか感じていないとは恐ろしい。
自由圏と言い共産圏と言っても所詮はお金を自由に競い合うか、
共有しあうかのあり方であって、金ゼッタイの体制に変わりはない。
毎年、世界で今一億二千万人の子供たちが飢え、病死している。
これも「我れ金」に走る大人達が起こしている犠牲である。
私に愛とお金のあり方を目覚めさせてくれる存在としての松田氏との交友は、
とても偶然とは考えられない。
仏教典の喩え話の一つに釈尊を悩まし続ける堤婆達多の存在は前世の師匠が
姿を変え釈迦を訓練し続ける為の変身であったと言う事を思い出す。
彼は命がけで徹底してお金に生きている人である。
私がどんなに根気強く愛を説いても彼は百パーセント、それを金から翻訳してしか
聞いてくれない。そして金に対する人間の弱さを知り抜いて、私に
「あなたの愛はまだ本物じゃない」
と語りかけてくるのだ。
私の真理探究のパートナーである杉本綾子そうだった。
彼女は昔、私にこう言った。
「あなたが愛を語るなら、お金を全部手放して下さい。」
とそして私は彼女に事実上の金庫の鍵を預けた。
元々銀行出身者である。金絶対社会に生きてきた人である。
このパートナーシップの完全さから私が得たものは自分の深い大きい自由さであった。
そしていつの間にか彼女自身も「我れ金」を手放し始め、自由さやあたたかさを満喫するようになった。
自分自身について思い当たるのは<よっちゃん時代>
私を猫可愛がりをしてくれたおばあちゃんが当時の予言者として有名だった
<初代・高島象山>なる易断の宗家に私を観させた時
「この子の晩年は未曾有の大富豪となる。その時、このままでは物凄いケチになるから
幼名だけでも慶光(よしみつ)と呼びなさい。」
と言われた事だ。
この大富豪という真意が、今何となく解けるのである。
どうもこれは目先の金持ちを言うのではなさそうだ。
私の知る限り、金持ちは必ずしも心の安らぎを得ていない。
むしろピリピリしている。そして人を信用しない。
つまり心は貧乏人のままなのである。
そこへ行くと確かに私はもうすでに大富豪である。
目先金はあるどころか、みんなのために借金しまくって一文無しである。
ところが日々の充実さとか自分の周りの人々のぬくもりと
信頼の中で毎日ホッカホカ暮らしをしている。
毎日、毎晩が面白くてたまらない。
何が起きても楽しい。
これは事実としての大富豪ではなかろうか。
そして、未来金は無尽蔵に存在する事がよーく見えてる。
これが最高の豊かさではなかろうか。
それにつけても人間がいかに金に捕らわれ、金に使われているかの事実を
人間自身が漠然としか感じていないとは恐ろしい。
自由圏と言い共産圏と言っても所詮はお金を自由に競い合うか、
共有しあうかのあり方であって、金ゼッタイの体制に変わりはない。
毎年、世界で今一億二千万人の子供たちが飢え、病死している。
これも「我れ金」に走る大人達が起こしている犠牲である。
私に愛とお金のあり方を目覚めさせてくれる存在としての松田氏との交友は、
とても偶然とは考えられない。
仏教典の喩え話の一つに釈尊を悩まし続ける堤婆達多の存在は前世の師匠が
姿を変え釈迦を訓練し続ける為の変身であったと言う事を思い出す。
彼は命がけで徹底してお金に生きている人である。
私がどんなに根気強く愛を説いても彼は百パーセント、それを金から翻訳してしか
聞いてくれない。そして金に対する人間の弱さを知り抜いて、私に
「あなたの愛はまだ本物じゃない」
と語りかけてくるのだ。
私の真理探究のパートナーである杉本綾子そうだった。
彼女は昔、私にこう言った。
「あなたが愛を語るなら、お金を全部手放して下さい。」
とそして私は彼女に事実上の金庫の鍵を預けた。
元々銀行出身者である。金絶対社会に生きてきた人である。
このパートナーシップの完全さから私が得たものは自分の深い大きい自由さであった。
そしていつの間にか彼女自身も「我れ金」を手放し始め、自由さやあたたかさを満喫するようになった。
自分自身について思い当たるのは<よっちゃん時代>
私を猫可愛がりをしてくれたおばあちゃんが当時の予言者として有名だった
<初代・高島象山>なる易断の宗家に私を観させた時
「この子の晩年は未曾有の大富豪となる。その時、このままでは物凄いケチになるから
幼名だけでも慶光(よしみつ)と呼びなさい。」
と言われた事だ。
この大富豪という真意が、今何となく解けるのである。
どうもこれは目先の金持ちを言うのではなさそうだ。
私の知る限り、金持ちは必ずしも心の安らぎを得ていない。
むしろピリピリしている。そして人を信用しない。
つまり心は貧乏人のままなのである。
そこへ行くと確かに私はもうすでに大富豪である。
目先金はあるどころか、みんなのために借金しまくって一文無しである。
ところが日々の充実さとか自分の周りの人々のぬくもりと
信頼の中で毎日ホッカホカ暮らしをしている。
毎日、毎晩が面白くてたまらない。
何が起きても楽しい。
これは事実としての大富豪ではなかろうか。
そして、未来金は無尽蔵に存在する事がよーく見えてる。
これが最高の豊かさではなかろうか。
2010年02月13日
第71話 5.コンタクト(遭遇)<愛とは何か>
<愛とは何か>
本屋にも「愛」の関連本は無限に出回っている。
テレビも芝居も人生ドラマのすべては「愛」をめぐるストーリーである。
ニュースも、そこから発生した悲劇である。
街の居酒屋で語り合う話題も愛をめぐる「よもやま話」があふれている。
では、愛とは何だ?と聞かれて即答できる人が中々いない。
私自身、よっちゃんと呼ばれた頃から遠い父、一緒にいてくれない母を求めて
人生の大半は「求愛の旅」であった。
母代わりを求め、出会った途端にしがみつく。
命がけで放すまいとむしゃぶりつく。
相手がギブアップするまで金でも時間でも投入して求め抜く。
これが「求める愛」であろう。
そのうち喧嘩となり対立が起こり、どうしたら二人がうまく行くかに身心を尽くした。
自分が社会的リーダーの立場を取るようになっても、何か人と出会えない。
あせった。
根本的に人間は信じられないものか?とあきらめかけた。
出会いのためにやれる事は何でもやり、道を求め続け、
波打ち際の砂船づくりを限りなく続けた。
これは「取引の愛」だったのかも知れない。
そして、ことばの凄み、ことばの尊さと出会うようになっていつの間にか自分から人を認める
「与える愛」に喜びを感じるようになった。
愛に生涯を捧げて得た結論は「平等愛」であった。
一切の差別をなくすことからの目覚めだった。
真の愛の正体とは人間は本質的に皆同じだという平等愛であったのだ。
愛に満たされた人生を現したいなら、
どれだけ人に愛を言い、伝え、乗り移る会話をするか、それしかない。
何故なら時間も、命も、お金もそして「愛」もすべては「ことば」なのだから。
本屋にも「愛」の関連本は無限に出回っている。
テレビも芝居も人生ドラマのすべては「愛」をめぐるストーリーである。
ニュースも、そこから発生した悲劇である。
街の居酒屋で語り合う話題も愛をめぐる「よもやま話」があふれている。
では、愛とは何だ?と聞かれて即答できる人が中々いない。
私自身、よっちゃんと呼ばれた頃から遠い父、一緒にいてくれない母を求めて
人生の大半は「求愛の旅」であった。
母代わりを求め、出会った途端にしがみつく。
命がけで放すまいとむしゃぶりつく。
相手がギブアップするまで金でも時間でも投入して求め抜く。
これが「求める愛」であろう。
そのうち喧嘩となり対立が起こり、どうしたら二人がうまく行くかに身心を尽くした。
自分が社会的リーダーの立場を取るようになっても、何か人と出会えない。
あせった。
根本的に人間は信じられないものか?とあきらめかけた。
出会いのためにやれる事は何でもやり、道を求め続け、
波打ち際の砂船づくりを限りなく続けた。
これは「取引の愛」だったのかも知れない。
そして、ことばの凄み、ことばの尊さと出会うようになっていつの間にか自分から人を認める
「与える愛」に喜びを感じるようになった。
愛に生涯を捧げて得た結論は「平等愛」であった。
一切の差別をなくすことからの目覚めだった。
真の愛の正体とは人間は本質的に皆同じだという平等愛であったのだ。
愛に満たされた人生を現したいなら、
どれだけ人に愛を言い、伝え、乗り移る会話をするか、それしかない。
何故なら時間も、命も、お金もそして「愛」もすべては「ことば」なのだから。
2010年02月06日
第70話 5.コンタクト(遭遇)<金も愛なり>
<金も愛なり>
私のルーツを振り返ってみよう。
父の家は、村上水軍の港と言われる瀬戸内海の岬で十六人兄弟の一人として生まれ、
独学で学歴を得て分限者にムコ養子に入った。
このデータだけでも如何に金絶対、弱肉強食の一族であるかが分かる。
海賊━貧村━大家族━学歴━金持ちの養子。
この単語シリーズで優に金脈小説が生まれる。
母は婚礼の晩、色男と駆け落ちをした祖母の娘として生まれ、
当時の宝塚歌劇にも当たる娘義太夫からタレント的存在の新橋芸者となった。
日本の宰相となった吉田茂や財界の大物、藤山雷太などに口説かれたが、
最終的には身近な地方大尽の父に落ちた。
情熱家━美形━ステージ━タレント━トレードという単語シリーズも
会いと美と権力と財力のしがらみそのものとして、生き方が浮き出して来る。
こうした父母のストーリーを統合していくと、自分の中で生き方としての会話体が見えてくる。
何のことはない。
松田氏と自分の関係とは父と母の関係の縮図であった。
いや、それどころか銀座と自分の関係。
片岡マスターと自分の関係。
南社長と自分、A会、B会の組織と自分、キャバレー界と自分、着物着付け業界と自分。
全ての環境と自分のエネルギー関係がほどけていった。
松田氏のマネーゲームへの反応は母なる自分と父なる自分の葛藤であった。
そしてこの「物あり」「我あり」の会話を区別するところから、父と母という会話、
金と愛という会話も対立から和合へとシフトしていったのである。
人間が会話者であるという原点から見ても、人間が本来求めているのは
「我々」という平等愛への目覚めである。
それを「我が金」と思い込む錯覚から愛の喪失を起こすのだ。
私のルーツを振り返ってみよう。
父の家は、村上水軍の港と言われる瀬戸内海の岬で十六人兄弟の一人として生まれ、
独学で学歴を得て分限者にムコ養子に入った。
このデータだけでも如何に金絶対、弱肉強食の一族であるかが分かる。
海賊━貧村━大家族━学歴━金持ちの養子。
この単語シリーズで優に金脈小説が生まれる。
母は婚礼の晩、色男と駆け落ちをした祖母の娘として生まれ、
当時の宝塚歌劇にも当たる娘義太夫からタレント的存在の新橋芸者となった。
日本の宰相となった吉田茂や財界の大物、藤山雷太などに口説かれたが、
最終的には身近な地方大尽の父に落ちた。
情熱家━美形━ステージ━タレント━トレードという単語シリーズも
会いと美と権力と財力のしがらみそのものとして、生き方が浮き出して来る。
こうした父母のストーリーを統合していくと、自分の中で生き方としての会話体が見えてくる。
何のことはない。
松田氏と自分の関係とは父と母の関係の縮図であった。
いや、それどころか銀座と自分の関係。
片岡マスターと自分の関係。
南社長と自分、A会、B会の組織と自分、キャバレー界と自分、着物着付け業界と自分。
全ての環境と自分のエネルギー関係がほどけていった。
松田氏のマネーゲームへの反応は母なる自分と父なる自分の葛藤であった。
そしてこの「物あり」「我あり」の会話を区別するところから、父と母という会話、
金と愛という会話も対立から和合へとシフトしていったのである。
人間が会話者であるという原点から見ても、人間が本来求めているのは
「我々」という平等愛への目覚めである。
それを「我が金」と思い込む錯覚から愛の喪失を起こすのだ。
2010年01月30日
第69話 5.コンタクト(遭遇)<親離れ、子離れ>
<親離れ、子離れ>
「自分は誰であるか。」
その事実は親代々の会話の集積をベースとし、もの心ついて以来の知識情報を
重ねた会話体である。しかも人はそれが自分であることなど思ったこともない。
元々自分の考えとか自分のやり方など存在していない。
ところが常識の会話に生かされている現代人は
「自分」という得体の知れない意識を、「居る」と信じきっている。
だから人間関係は混乱する。
自分とは親たちの会話体そのものであり、それも当人が知らないうちにインプットされている。
特に生み育てた母親の会話が八十%以上を占める。
自分とは誰か?この人生の謎の第一関門はここから開いて行く。
この事実からいえば、人間は基本的に親離れ出来ない。
知識や学歴などデータ的な違いはつくるかに見えるし、
それなりに社会の変化の波に浮き沈みはするが、生き方としてのオリジナルな会話体は、
全く進化しない。ゴキブリの無進化と同じく本質的な違いはない。
従って、概念として親離れということばはあるが、事実としては存在しない。
そして事実としての親離れとは自分が人間として最もこだわり、しがみついている、
“物”への執着を手放すことである。
具体としては“金”を我が物として見ない事から始まる。
その事実を思い知らせてくれたのは自分の人生の旅の最終ラウンドで出会った
松田氏の存在であった。
彼は昭和18年、太平洋戦争のピーク期に南九州の地方都市に次男坊として生まれた。
父は警察官、そして沖縄戦で戦死。
母は近くの駄菓子屋で働きながら、三人の子供を育てた。
極端な貧乏暮らしである。l
母に会いたくてその駄菓子屋に近づくと、来てはダメのサインとして
母は彼に石を投げたと言う。そして彼はつぶやいた。
愛はお金に勝てない。金さえあれば愛は得られると。
このメッセージが彼の手段を選ばぬ、しぶとさを創った。
その瞼の母芝居が、彼のネットワークビジネスとなった。
そして、命がけで財を築いたのである。
松田氏に出会う人々は白昼夢を見る。
そして彼に降参し、人生をかけるのである。
私自身、彼と会う度にこのマジックパワーであるお金の引力を徹底して浴びた。
ある時私は彼から、自分の会社の副社長にならないかと誘われた。
生涯を潤す様な待遇を用意する。その代わり百%オンリーになれというのである。
しかし私はそういう関係になる事は、
あなたのためにならないと言って、好意を断った。
私が求めていたのは、巨万の富の向こうにある真理の探究であった。
命がけでA会を探訪した事もそれが目的だった。
人間とは何かのライフワークに全てをかけたのも、
結局は人間・人生・ゴールの探究である。
しかし、私は彼の金の魔力に会う度にグラついた。これは一体何なのか?
私自身であることばがこれ程までに反応するのは、自分を極めるチャンスではないのか?
もしかしたら、金のエネルギーの向こう側にこそ、
自分の求めている真理の実体があるのではないかと直感した。
それが実は、親達と言うべきか、人類がはまっている
「物あり」「我がゼッタイ」「お金がすべて」
の迷信への突破であった。
「自分は誰であるか。」
その事実は親代々の会話の集積をベースとし、もの心ついて以来の知識情報を
重ねた会話体である。しかも人はそれが自分であることなど思ったこともない。
元々自分の考えとか自分のやり方など存在していない。
ところが常識の会話に生かされている現代人は
「自分」という得体の知れない意識を、「居る」と信じきっている。
だから人間関係は混乱する。
自分とは親たちの会話体そのものであり、それも当人が知らないうちにインプットされている。
特に生み育てた母親の会話が八十%以上を占める。
自分とは誰か?この人生の謎の第一関門はここから開いて行く。
この事実からいえば、人間は基本的に親離れ出来ない。
知識や学歴などデータ的な違いはつくるかに見えるし、
それなりに社会の変化の波に浮き沈みはするが、生き方としてのオリジナルな会話体は、
全く進化しない。ゴキブリの無進化と同じく本質的な違いはない。
従って、概念として親離れということばはあるが、事実としては存在しない。
そして事実としての親離れとは自分が人間として最もこだわり、しがみついている、
“物”への執着を手放すことである。
具体としては“金”を我が物として見ない事から始まる。
その事実を思い知らせてくれたのは自分の人生の旅の最終ラウンドで出会った
松田氏の存在であった。
彼は昭和18年、太平洋戦争のピーク期に南九州の地方都市に次男坊として生まれた。
父は警察官、そして沖縄戦で戦死。
母は近くの駄菓子屋で働きながら、三人の子供を育てた。
極端な貧乏暮らしである。l
母に会いたくてその駄菓子屋に近づくと、来てはダメのサインとして
母は彼に石を投げたと言う。そして彼はつぶやいた。
愛はお金に勝てない。金さえあれば愛は得られると。
このメッセージが彼の手段を選ばぬ、しぶとさを創った。
その瞼の母芝居が、彼のネットワークビジネスとなった。
そして、命がけで財を築いたのである。
松田氏に出会う人々は白昼夢を見る。
そして彼に降参し、人生をかけるのである。
私自身、彼と会う度にこのマジックパワーであるお金の引力を徹底して浴びた。
ある時私は彼から、自分の会社の副社長にならないかと誘われた。
生涯を潤す様な待遇を用意する。その代わり百%オンリーになれというのである。
しかし私はそういう関係になる事は、
あなたのためにならないと言って、好意を断った。
私が求めていたのは、巨万の富の向こうにある真理の探究であった。
命がけでA会を探訪した事もそれが目的だった。
人間とは何かのライフワークに全てをかけたのも、
結局は人間・人生・ゴールの探究である。
しかし、私は彼の金の魔力に会う度にグラついた。これは一体何なのか?
私自身であることばがこれ程までに反応するのは、自分を極めるチャンスではないのか?
もしかしたら、金のエネルギーの向こう側にこそ、
自分の求めている真理の実体があるのではないかと直感した。
それが実は、親達と言うべきか、人類がはまっている
「物あり」「我がゼッタイ」「お金がすべて」
の迷信への突破であった。
2010年01月23日
第68話 5.コンタクト(遭遇)
人間であること
“ことば”によって
「自分、人、そして社会」を現した
“人間”にとって
互いに約束した生き方を破り
“うそのことば”を使うことは
互いの「信頼」を壊し
「愛」を殺すことです。
「事実」をありのまま話し合う。
ここが「我々」としての生き方です。
ここが「誠実」へのあり方です。
ここをまたぐと、自分であることを裏切り、
ことばによって互いを生かし合う
人間であることを失うのです。
“ことば”によって
「自分、人、そして社会」を現した
“人間”にとって
互いに約束した生き方を破り
“うそのことば”を使うことは
互いの「信頼」を壊し
「愛」を殺すことです。
「事実」をありのまま話し合う。
ここが「我々」としての生き方です。
ここが「誠実」へのあり方です。
ここをまたぐと、自分であることを裏切り、
ことばによって互いを生かし合う
人間であることを失うのです。
2010年01月16日
第67話 4.プレビュー(顔ぶれ) <同志の条件>
<同志の条件>
人生とは人間関係の別名である。
どんな人と関わったか、別の言い方をすればどんな組織を創ったかによって
人生のスケールは測る事が出来る。
私を中心とした親密なチームをどう現したか振り返ってみよう。
二十代、銀座のアイディア会社、三十代、A会の懐深く入った時、
四十代、話道教室を興した頃、そして五十代、ヒューマナイズの名のもとに
プログラムを探究した歩み、そして六十代、
いよいよ会話科学へ接近する時、七十代、でんぐり庵エデュケーションとして
社会に拡がって行く時、それぞれの人間関係こそ私の生き方そのものであった。
一体どうすれば人は人と出会い、信頼しあい「我々」というチームをつくる事が
出来るか?これは究極的な人生の謎であった。
父が最後の晩、「人を動かす事が一番難しいな。」
と問いかけて来たのも、ここのところだ。
世間で言う我々関係は親子・夫婦・兄弟・身内・親戚・親友などと言う
ことばがある。しかしこの種の血族・血縁関係がどこまで信頼しあい、
真に「我々」なのであろうか?
親子がお金を巡ってどれだけカケヒキをしているか?
夫婦が本当に信頼にいるのだろうか?
兄弟・身内・親戚なる関係がどれ程協調しあい我々にいるだろうか?
しきたり・しがらみの煩わしさに互いがどれ程不自由さを感じている事か?
親友と思い込んでいる関係がイザとなったら、どれ程モロイものか、
ちゃんと人間同志は知っているのだ。
知っていながら、ことばの綾を使って互いが利用しあっている。
これが血族・血縁・親密の実体である。
プログラムリーダーとして人生をかけた杉本綾子が実母の死を巡る
身内のしがらみを体験した時、スタッフを眺めて
「本当の身内とは会話で出会ったあなた達だよ。」
と言ったことばには実感があった。
ともあれ私自身「ことばがすべて」の真理に出会う迄、
人はすべて正体の知れない恐いものであり、
まともな組織は全く出来なかった。
人生とは人間関係の別名である。
どんな人と関わったか、別の言い方をすればどんな組織を創ったかによって
人生のスケールは測る事が出来る。
私を中心とした親密なチームをどう現したか振り返ってみよう。
二十代、銀座のアイディア会社、三十代、A会の懐深く入った時、
四十代、話道教室を興した頃、そして五十代、ヒューマナイズの名のもとに
プログラムを探究した歩み、そして六十代、
いよいよ会話科学へ接近する時、七十代、でんぐり庵エデュケーションとして
社会に拡がって行く時、それぞれの人間関係こそ私の生き方そのものであった。
一体どうすれば人は人と出会い、信頼しあい「我々」というチームをつくる事が
出来るか?これは究極的な人生の謎であった。
父が最後の晩、「人を動かす事が一番難しいな。」
と問いかけて来たのも、ここのところだ。
世間で言う我々関係は親子・夫婦・兄弟・身内・親戚・親友などと言う
ことばがある。しかしこの種の血族・血縁関係がどこまで信頼しあい、
真に「我々」なのであろうか?
親子がお金を巡ってどれだけカケヒキをしているか?
夫婦が本当に信頼にいるのだろうか?
兄弟・身内・親戚なる関係がどれ程協調しあい我々にいるだろうか?
しきたり・しがらみの煩わしさに互いがどれ程不自由さを感じている事か?
親友と思い込んでいる関係がイザとなったら、どれ程モロイものか、
ちゃんと人間同志は知っているのだ。
知っていながら、ことばの綾を使って互いが利用しあっている。
これが血族・血縁・親密の実体である。
プログラムリーダーとして人生をかけた杉本綾子が実母の死を巡る
身内のしがらみを体験した時、スタッフを眺めて
「本当の身内とは会話で出会ったあなた達だよ。」
と言ったことばには実感があった。
ともあれ私自身「ことばがすべて」の真理に出会う迄、
人はすべて正体の知れない恐いものであり、
まともな組織は全く出来なかった。
2010年01月09日
第66話 4.プレビュー(顔ぶれ) <魑魅魍魎>
<魑魅魍魎>
「口がうまければ金が儲けられる」
「異性が口説ける」
「格好がいい」
「知り合いになって利用しよう」彼のもとを訪れる人々の99%が欲望達成の手段としてであった。
様々な人種がどこかで会話の真理に憧れながらも欲望に追われて消えていく。
あるパチンコチェーンの経営者は「こんな世界もあるんだなぁ。」
と涙ぐんで、結局は自分のビジネス達成のための「情報商人」であった事だ。
そして結局は、自らが言っている事とやっている事の矛盾にはまり、消えて行った。
人間は真理そのものを理解していなくても会話し話し合うことによって、
マイナスのエネルギーは淘汰されていく。
会話にはそんな不思議な働きがある。
会話科学のプログラムはトータルして9日と3晩。
これが2日と1晩、3日と1晩、4日と1晩に分れる。
そして信頼の人間関係をつくり続ける生涯学習へと発展していく。
その旅路でリーダーの立場を取る人々にも、脱落が出る。
皆の前で“この真理に人生をかける”と宣言した人物がドロップする。
そのキッカケはコンプレックスとマネーとセックス。
そこから物あり、我ゼッタイに負けるのだ。
生まれつき身体にコンプレックスを持った娘がいた。
親からも「お前は弟と入れ替わっていたらよかったのに。」
と言われ、ハンデをバネにして大学まで出た。
そしてサラリーマンとなり、「いやしの場」を求めて会話科学のレギュラーになった。
自分の会話が「私はダメ」で満たされているとどうしても人と出会えないし、
ましてや人類へのコミットなど及びもつかない。
唯ひたすらにダメダメゲームを繰り返し、世間に帰って行った。
不道徳な親の娘として生まれ、近親のいじめの中で育って人を絶対信じない女がいた。
彼女がしがみついたのは「お金」であった。
皆の前で真理を絶叫し自分をリーダーとして宣言した事も、全ては芝居であった。
会話科学が経済革命を打ち出し、それが実は自分の中のお金との決別である事を知った時、
そそくさと欲望の巷へ出て行った。
強烈な親に密着され、十年近く我ゼッタイゲームの突破をかけたガンバリ屋がタナボタのような
「結婚」という切り札が出た途端、普通の人に変身した。
性欲と金欲で人は見事に変身する。
人との関わりとは所詮、異性や金づるを得るための手段であるかのようである。
「口がうまければ金が儲けられる」
「異性が口説ける」
「格好がいい」
「知り合いになって利用しよう」彼のもとを訪れる人々の99%が欲望達成の手段としてであった。
様々な人種がどこかで会話の真理に憧れながらも欲望に追われて消えていく。
あるパチンコチェーンの経営者は「こんな世界もあるんだなぁ。」
と涙ぐんで、結局は自分のビジネス達成のための「情報商人」であった事だ。
そして結局は、自らが言っている事とやっている事の矛盾にはまり、消えて行った。
人間は真理そのものを理解していなくても会話し話し合うことによって、
マイナスのエネルギーは淘汰されていく。
会話にはそんな不思議な働きがある。
会話科学のプログラムはトータルして9日と3晩。
これが2日と1晩、3日と1晩、4日と1晩に分れる。
そして信頼の人間関係をつくり続ける生涯学習へと発展していく。
その旅路でリーダーの立場を取る人々にも、脱落が出る。
皆の前で“この真理に人生をかける”と宣言した人物がドロップする。
そのキッカケはコンプレックスとマネーとセックス。
そこから物あり、我ゼッタイに負けるのだ。
生まれつき身体にコンプレックスを持った娘がいた。
親からも「お前は弟と入れ替わっていたらよかったのに。」
と言われ、ハンデをバネにして大学まで出た。
そしてサラリーマンとなり、「いやしの場」を求めて会話科学のレギュラーになった。
自分の会話が「私はダメ」で満たされているとどうしても人と出会えないし、
ましてや人類へのコミットなど及びもつかない。
唯ひたすらにダメダメゲームを繰り返し、世間に帰って行った。
不道徳な親の娘として生まれ、近親のいじめの中で育って人を絶対信じない女がいた。
彼女がしがみついたのは「お金」であった。
皆の前で真理を絶叫し自分をリーダーとして宣言した事も、全ては芝居であった。
会話科学が経済革命を打ち出し、それが実は自分の中のお金との決別である事を知った時、
そそくさと欲望の巷へ出て行った。
強烈な親に密着され、十年近く我ゼッタイゲームの突破をかけたガンバリ屋がタナボタのような
「結婚」という切り札が出た途端、普通の人に変身した。
性欲と金欲で人は見事に変身する。
人との関わりとは所詮、異性や金づるを得るための手段であるかのようである。


